外伝/03-醒 |
その光景を、知っていた。 『グリーン、』 隔たれた先、大切な人が、柔らかな微笑みを浮かべこちらを静かに見ている。 残酷な研究所。これから何が起こるのかなんて、嫌になるほどわかりきっていて。 『守ってあげられなくて、ごめんね』 耳朶を叩く優しい音。 欲しいのはそんなものでは、言葉ではなかった。ただ傍にいてくれれば、生きていてさえくれれば。 何度も何度も止めてくれと懇願する声はけれど一つも届くことなく。 ―――もう喪いたくなんてないのに。 『あなたは、生きて』 そして。 目の前には惨劇が広がっていた。 抉れた腹と口から溢れ出た血が部屋を汚し、グリーンの足元まで浸食するほどに広がっている。繋ぎとめた手は力を失い、放せばあっさりと床に落ちた。 ―――知っている。 『…グリーン…っごめん…』 『……ごめんな…何もして、やれなくて…』 優しさに満ちた言葉が、泣きそうな微笑みが、飛び散った赤い色が、凍らせた心を酷く揺さぶる。 強烈な、フラッシュバック。 「あ、」 あまりにも似すぎているあの記憶と今。痕になることなく痛み続ける傷が、あの光景を連れてくる。 届かなかった手。目を背けたくなるような死体。噴き出した鮮血。心が砕け散る、音。 現実と記憶が混ざっていく。あの日死んだのは、今倒れているのは。 殺して、しまったのは――― 「……コード【光】、戦闘不能。実験を終了する。繰り返す、コード【光】、戦闘不能。実験を終了する……、?なんだ、この反応は…」 【光】を回収して治療させるよう周りの部下に命令し、実験室のモニターを眺めていた研究員は、ふと導術の力を測定する機械がおかしな反応を示していることに気づいた。 モニターを確認しても、もちろん二人が導術を使っている様子などなく、故障だろうかと首を傾げる。先程まで正確に機能していた筈なのだが。 すると、今度は備えつけられた温度計に異変が起きた。急激に温度が下がり、瞬く間に0度を切る。 それと同時に、警告を示すサイレンの音。想定していなかった事態に狼狽しながら、研究員は回収を命じられた部下達の姿をモニターで確認した。 『お前は【月】を拘束しておけ、その間に【光】を連れて行く』 『わ、わかりました!しかしこの温度は一体……』 尋常でない寒さに体を震わせながら、その中の一人が【月】に近付いた。正気を失っているそれは普段なら研究員にも襲いかかってくる筈なのだが、何故か今日は【光】を見つめたまま動く気配がない。好都合だと内心ほっとしながら、拘束しようとその腕に手を伸ばす。 心を満たすのは深い絶望。 決して失ってはいけなかったのに。 やさしいひと。唯一の家族を、また。 ―――俺が、この手で。 その時、緊急事態に対応の遅れたコンピューターがようやく異常の原因を突き止めた。 三年前の実験。今回と同様、導術の測定値が異常な数値を叩き出したことがあった。 何故今まで気づかなかったのだろう。さっと血の気が引くのを感じながら、マイクに向かって怒鳴りつける。 「近付くな!早く撤退しろ!!」 『は……?』 しかし一瞬遅かった。【月】の腕に触れたその手が―――一瞬にして凍りついた。 状況を飲み込めず呆然としている間に、凄まじい勢いで腕を蝕む氷。ひ、と研究員の誰かが悲鳴を上げた。 ゆらり、俯いていた顔が持ち上げられる。 『………ぅ、あ』 瞳孔は完全に開いていた。見開かれた緑に月が揺らめく。 誰も竦んで動けない。肌を切り裂くような空気の冷たさが、狂気を孕んで研究員達の足を縫い止める。 一瞬の沈黙。そして。 『―――っぁあああああぁぁ!!』 絶叫とともに、凍りついた床から夥しい量の霜が突き上がった。 ―――繰り返した。 心を裂くような嘆きが、聴こえる。 『これは…――これは、まずい、封鎖しろ、シャッターをおろすんだ!!』 「う、うわあああぁぁっ!!」 慌てた研究員の叫び声。 肌を打つ凄まじい冷気と、何かが凍りつく音。 その中で一際響くのは、耳慣れない音域の悲鳴。 心を乱すそれらに揺さぶられ、遠のきかけていた意識が引きずり戻される。 ―――グリーン? 『まずいぞ、ビルが凍り始めてる!』 『――所員、実験体すべて一時退避せよ!【月】が暴走している、すみやかに退避せよ!』 力の入らない指で、なんとか体を支えて起こす。 血はまだ少し流れていたものの、既に痛覚など麻痺していた。霞む目を無理矢理開き、レッドは悲鳴の元を探す。 「ぅあ、あああぁあ……っ!!」 「………ぐり、ん…?」 血を吐くような、という形容が相応しい悲痛な声。背中からは恐らく【月】の力だろう、冷たく光る糸が伸び、逃げようともがく研究員達を絡め取っていた。 見開かれた目は焦点が合っていない。敵意や殺気といったものは感じられず、思考の制御を失った力が無秩序に放たれていた。 ―――暴走、だ。 「やめ、っやめろ……――!!」 「ひいっ……!!」 【月】の光に捕まった研究員達が、グリーンの力をまともに受けて次々に凍らされる。 氷のオブジェと化したそれらを見て戦慄した彼らは逃げようと必死で暴れるものの、敵うわけもなく。叫ぶ口すら覆われ、暴力的に音が減らされていく。 「……ッ、ぐ、り…だめ…だ……」 上手く動かない体がもどかしくて仕方がない。這いずるようにして近づきながら、レッドはグリーンに手を伸ばす。 強すぎる力は術者自身をも傷つけていた。苦しげに吐血する彼を、無意識に多くを傷つけている力を止めたくて、縋るようにその服の端を掴んだ。 「ぐっ…う……っ!」 「っうあ……!?」 四肢にひどい冷たさを感じた、瞬間、何かに引きずられ体が無理矢理持ち上がる。 見れば、手首と足首が研究員と同じように糸で縛り付けられていた。反動がきているためか一瞬で凍らされるほどの力はないが、それでもなお刺すような寒さがレッドを痛めつける。 けれどそれですら今のレッドには些細なことだった。引きずり上げられたことで近づいた顔が、悲しみと痛みに歪んでいることの方がよほど苦しくて。 自由に動かない体で、倒れ込むようにして抱き締める。 「グリーン、大丈夫…だから……!」 「………ぇさ…、」 「っ、え……?」 痛みに呻く唇が、微かに震えたのを聞いた。 ―――姉さん。ごめん。姉さん。 繰り返し繰り返し、紡がれるのは悲壮な謝罪。もう返事など返ってこない、その人への。 きっと思い出してしまったのだろう。目の前で倒れたレッドに、戻らない過去の人を重ねて。 手足は常に流れ込む力を受けて、徐々に凍り始めていた。痛みを覚えるほどの冷気に顔を歪めながら、抱き締める腕は離さずに口を開く。 「違う……グリーン、俺は、姉さんじゃないよ」 言い聞かせるように静かに告げると、グリーンが微かに頭をもたげた。 少し体を離して見れば、月を映した緑の中、狂気は僅かに薄らいでいて。ちがう、唇だけで繰り返した彼に頷き、ゆっくりと続ける。 「落ち着け、ここにいる、のはっ……お前の、姉さんじゃない……」 「…………」 「俺は、レッドだ。……姉さんじゃないよ。」 ゆっくりと、満ちた月が欠けてゆく。 レッドが言葉を重ねるほどに正気の色は強まり、溢れ出した力は収束してきていた。四肢を拘束していた力も徐々に弱まり、ついには消える。 「お前は、姉さんを傷付けたり、してない」 届いてほしいと願いながら、氷のような体温を暖めるようにグリーンの手を握る。 きっとレッドには最初からわかっていた。壊れた心のその先に、やさしい色を抱え込んでいること。 こんなにも必死に呼びかけるのは、自己犠牲心でも何でもなくて。 「………レッ、ド……?」 「……そう、レッド」 ―――ただ、その目で真っ直ぐに見てほしいって、思ったんだ。 完全に狂気が消え、息を吹き返した綺麗な瞳を見つめて、レッドは小さく笑った。 「………姉さんじゃ……ない」 小さく呟きながら、グリーンがレッドの頬に触れた。確かめるように撫でる手つきは、壊れ物を扱うかのようにやさしい。 それが心地よくて、頷く代わりに温もりにすり寄る。 「……うん、そうだよ。お前は、姉さんを傷付けたり、してない。」 「傷……、」 グリーンの視線がゆっくりと下に落ちて、氷柱の刺さった腹部で、止まった。 息を呑む音。病的に白い肌から一気に血の気が失せ、頬にかかっていた手が落ちる。 自分が何をしたか気づいたのだろう。震えて離れようとする腕を引き止め、レッドは安心させるように微笑んだ。 「このくらいなんてことないって……すぐ、治る」 だから、落ち着いて、ちゃんと俺を見て。 再び平静を失いかけたグリーンに言い聞かせて、逸らされた視線をしっかりと合わせる。瞳が泣きそうに揺れて、レッド、と小さく呟く声が聞こえた。 過去に縛られていた彼が、今やっと現実を、自分を見てくれている。それが嬉しくて、レッドは顔をほころばせた。 「っ……何で笑っていられるんだ…!俺は、お前をっ…!」 「だから、大丈夫……だ、って」 平気だよ、と続けようとした唇は、しかし上手く動かなかった。グリーンが正気を取り戻したことに安堵したからか、奇跡的にはっきりしていた景色が再び霞み掛かってくる。 体が鉛のように重く、支えきれずに体勢を崩すと、床に倒れ込む前に細い腕が伸びてきて支えられた。 「っ……おい!!」 「……な、グリーン…もう、いいだろ?」 何度も遠のきかける意識をなんとかつなぎ止めながら、歪む視界の中に綺麗な瞳を見る。 後悔と恐怖に震えているそれがひどく痛々しくて、ごめんなと心の中で呟いた。苦しませることはわかっていて、けれど正気に戻って欲しいと願ったのは自分のエゴだ。 だから、せめてその傷が軽くなるように。 「そんな、さ、自分責めること、やめろよな……」 こんなの、痛くもなんともないから。 自分の無力な言葉でも、少しでも届けばと思う。後悔して、悩んで苦しんで。自分を追い詰める時の辛さはよく知っているから。 「お前が、責任感じてるのは、分かるよ…優しいもんなあ、お前…… ……けど、償いが必要だと、しても…も……十分……」 「っ……レッド!?」 名前を呼ぶ声が遠くに聞こえる。まずいなあと思うけれど、体は上手く動かない。 ごめん、もう一度呟いて、もたれかかるように抱き締めた。もう殆ど力の入らない腕で、冷え切ってしまった体を、心を包む。 この体温と同じに、伝えられたら、と。 「な……いっしょに、もっと…いろんなこと……」 「レッド!おいっ……!!」 ひどく眠くて仕方がなかった。死ぬ、という意識は不思議となくて、だから恐れることもなく重い瞼を閉じる。 本当はもっと言葉を重ねて、少しでも安心させたかった。けれどどうやらこれ以上は叶わないようだから、次に起きた時にはきっと。 「…たのしいこと……たくさん……、」 そして、ゆっくりと腕が落ちた。 「レ、ッド……?」 軽い体重が預けられて、抱き締めて支えながらその名前を呼ぶ。返答はなく、自分と同様冷え切った体はぐったりとして動かない。 ただ眠っているだけのように穏やかな表情。しかしその顔はひどく青ざめ、出血の多さを窺わせた。 「………俺、が……」 覚えている。止まった心でただ壊すことだけを考え、ひたすら傷つけてきたこと。 時を刻むごとに記憶は鮮明になり、この両手は殺めた感触を思い出す。狂気に呑まれた自分のおぞましい所業に震え、抱き締める腕の力を強めた。 心が再び凍てつく音とともに、景色も白く無機質に冷えてゆく。 「……姉さん………やっぱり、俺は…」 ―――あなたは生きて。 最後の微笑みを、願いを、覚えている。 けれどその死のために数多の命を奪った自分の罪は、決して許されるものではなくて。潰れてしまいそうだと、思う。 その時、魂まで焼き尽くすような灼熱が視界を駆けた。 部屋を覆う氷が一瞬で溶かされ、目を灼くほどの光の先に人影がゆらめく。 未だ現実に戻りきれない意識の中で見上げていると、突然頬に衝撃を受けて倒れ込んだ。 「てめぇ……自分が何やってんのか分かってんのかよ」 唸るような声は記憶よりも少し低かった。猛禽類を思わせる鋭い金に射抜かれて、ふ、と現実を取り戻す。 姿を現したのは見知った顔だった。少し伸びた背と増えた傷以外、外見は同じ。ただ一つ、グリーンに向けられる敵意と怒りを灯した瞳が、いつかの彼とは変わってしまったことを示していた。 「………ゴールド」 名を呼べば、喋れるようになったのか、と微かに驚いたように目が瞠られる。そう、自分はそんな当たり前のことすら失っていたのだ、と思い知った。 ぎゅう、と細い体を抱き締めて、もう一度ゴールドに視線を戻す。 ―――何故、視界が歪むんだろう。 「…………ゴールド、頼む」 「………、」 「………殺してくれ…」 自分はきっとまたこの手を血に染めてしまうから。罪を更に重ねることしかできないから。 静寂に落ちた声はやけに響いて、余韻を残して消えた。 見開かれた瞳がゆっくりと鋭くなり、厳しい光を帯びる。ふっとその顔が近づいたと思うと、激しい衝撃を再び頬に受けた。 「………甘えてんじゃねぇよ」 「………あま…?」 「……、まともに考えられるようになったんだったら、喋られるようになったんなら、他に出来ることがあるだろう、てめぇにだって!! てめぇのはただの甘ちゃんのわがままだろうが!」 「っ……違う!!」 激しい怒声が麻痺しかかっていた感情を揺さぶり起こした。きつく眉根を寄せた険しい表情を初めてまっすぐ見返し、反論する。 しかしゴールドは全く動じなかった。がっと乱暴にグリーンの胸倉を掴むと思い切り引き寄せ、怒りを纏わせながら再び怒鳴りつけてきた。 「何が違うんだ?あ? 守ろうとすらしなかったてめぇが、守るって選択肢を初めっから考えずに心を閉ざしたてめぇが殺してほしいだと?ふざけんな!! 死にたいなら自分で死ねよ、俺はお前のことなんざ知ったこっちゃねぇ!」 吐き捨てられた言葉はあまりに正論で、何も言い返せず黙り込む。 力はあった。けれどあるだけで、何の役にも立たず。 むしろ傷つけるばかりの自分に守ることなどできないと、あの日、絶望とともに心に刻み込んでいた。 それを、逃げ以外の何だというのか。 「……泣くことも思い出したんだろ、お前は何で泣いてたんだよ」 「今度は守れよ!!」 ―――お前も、俺が守ってやるから 悲痛ささえ帯びた叫びが、心を閉ざす前の遠い記憶を連れてくる。 いつだったか、小さなその背を叩いて、笑って言った言葉。それを今度は自分が突きつけられることになるだなんて。 何も知らず、ただ希望だけはしっかりと握り締めていたあの頃。一度零れ落ちてしまったからと、何もかも失った気になっていた自分は過去にすら劣る。 「………ゴールド……」 「……暴走が止まったなら力の調節できるだろ」 「……、ああ」 今度は静かなゴールドの声に頷いて、レッドの腹に手を当てる。 【月】の力には、相手の神経を麻痺させる作用がある。調節すれば麻酔のようにすることも可能だった。 だから糸で痛覚を遮断させてから、腹を貫く氷柱を溶かすと同時に止血のための氷を張る。どこか辛そうな表情が微かに緩んだのを見て、少しだけ安堵した。 「外に救護班がいる。さっさとそいつ抱えてこっから出ろ。 ……じゃないと、火傷するぜ?」 「………わかった」 ゴールドの操る炎が部屋を覆う氷を焼き始めるのを横目に、レッドを抱き上げて立ち上がる。 まだ辛うじて呼吸はあるものの、如何せん出血量が多すぎた。一刻も早く治療させなければと、ゴールドに背を向けて出口に向かう。 そして扉に手を掛ける、と、ふと背後から声が降ってきた。 「………言っとくが、俺はてめぇなんて大嫌いだ。一生あのまま、廃人のまま死んでればよかったんだ。 ……俺はお前を許さない」 冷たい声音は、狂った自分の仕打ちを思い知らせるようだった。 少し生意気で口は悪いけれど、とても優しかった彼を覚えている。憎ませてしまったのは他の誰でもない、グリーンだ。 「………すまない…」 「っ……、早く出ろって言ってんだろ!!」 「ああ、ありがとう」 声を荒げるゴールドに礼だけを言い残し、振り返ることはせずに部屋を出る。 償わなければと、思った。彼にも、レッドにも、今まで殺めてきた者達にも。 そのためにも、今はこの腕の中の命が失われないようにと、走る。 「っくそ……何で………っ」 苛立ちをぶつけるように、ゴールドは自らの炎を部屋に叩きつけた。 ―――ありがとう。 グリーンを、憎んでいる。心を裏切られた日のことは未だ鮮明に覚えているし、彼を許すつもりなど毛頭ない。 だけど、いつかを思い出させる静かな声音に、こんなにも揺らいでいる自分がいる。 「俺は……おれは、………お前なんてだいっきらいだ……っ!!!」 自分に言い聞かせるようにして叫び、一気に炎の温度を上げる。 溶けてゆく氷を、彼の力の片鱗を見ればまた思い出してしまいそうで、ゴールドは振りきるように強く目を瞑った。 けれどまた、繋ぐことができるだろうか。 |
2009.12.18 |