24/望んだものは-5 |
あらゆる記憶がよみがえってくる。暗い研究所の内装や無機質な空気、血の匂いと実験体と呼ばれる人間たちの陰った瞳。その陰った瞳は――ゴールドの金色の瞳に同調していく。彼はあの鬱鬱とした研究所の中でもしたたかに生きていた。死ぬのはいやだ、殺したくもない、だけどそれじゃここでは生きていけないと強いまなざしすべてをレッドに向けて語った彼は随分と大人びていたことを未だに覚えている。 ――助けを求めてあいつが必死に伸ばした手を俺は、 握れなかったのだ、とレッドは頭を抱えた。グリーンは傷が完治していないにも関わらず外出してしまっていまはいない。頭を冷やしたくて珍しくコーヒー淹れるが少しだけその香りに気分が悪くなってしまう。 「なんとか、しなきゃ」 その思考は繰り返されてもう何度目だっただろうか。なんとかしなければならないのはわかるのに彼をどん底に突き落とした自分が、自分たちがなんとか彼を救い上げなければならないと思うのにその方法がわからない。いま、自分たちが手を差し伸べたとて彼はその手を握ってくれるのだろうか。 ぐるぐると循環する思考を断ち切れないまま、レッドはソファに身をゆだねる。その柔らかさがいまは少しだけ自分を安らがせる気がした。長く息を吐いて身体の力を抜くと穏やかな静寂が訪れる。ぼんやりと白い天井を眺めながら少し眠ろうか、と目を伏せたその時だ。こんこん、とノックの音が響く。びくりと身体が震えたのがわかった。 ――もしもまた、彼だったら。 本当は怖かったのだ。だけど怖がっていても前には進めない。レッドは立ちあがって玄関へと向かう。コンコン、という控えめなノックが再び響いた。身体がかたくなるのを感じながらドアノブに手を添え、扉を開く。予想に反してそこにいたのはどこか落ち着かない様子のサトシだった。 「サトシじゃないか。どうかしたのか?入れよ」 「レッドさん……レッドさん、どうしよう俺、おれ……」 まるで縋りつくようにサトシの指がレッドの服を掴んだ。どうしようもない感情の行き場に困っているようだ、と思う。どうやらいつものように茶化していい話ではないようだ。 「とりあえず、中に入ろう?ここじゃ話も出来ないだろ」 「あいつに、あいつに会った」 「あいつ?」 サトシの言葉を反芻するようにレッドは繰り返す。"あいつ"――心当たりならば、ある。 「ゴールドに……会った」 泣くのをこらえているのだろうか、サトシの声は震えていた。その口から零れた名前がやはり予想通りの人物でレッドも泣きたくなる。ああ、やっぱり、と納得いってしまう現状が苦しくてたまらない。彼は、ゴールドは未だにサトシを。 「どうしよう、どうしようレッドさん、あいつ、オレのこと許さないって」 言ってた、とあとに続く言葉はもう消え入りそうだった。サトシの身体がいつもよりも随分小さく縮こまってしまって、レッドは更に自分のしたことの重さに息が苦しくなる。もしもゴールドが自分たちとともに逃げていたら、あそこから脱出していればこんなことにはならなかったのだろうか。ゴールドとグリーンも、ゴールドとサトシも手を握り合うことが出来たのだろうか。 「ゴールド、オレのことまたゼロって呼んだんだ。おれ、オレはゼロなんかじゃない。にんぎょうじゃない、ちがうのに……ゆるさないって、ゼロだって」 「サトシ」 「どうしようシゲルに知られたら、あんなの、オレ、オレは」 思い出すのはサトシの笑い声だ。無邪気に笑ってお前は使い捨てだと、要らないのだと、遊ぼうと言って力をふるっていた彼の声、姿。レッドはそれを痛ましいと思いながらも確かな恐怖を覚えていた。あまりにも彼は無邪気に人を殺す――研究所の操り人形。 サトシは怖かった。笑いながら人を殺す自分。それが絶対的に事実であり、消し去ることの出来ない過去であること。シゲルにそれを知られたら、拒絶されたら。 「大丈夫、お前はゼロじゃない、サトシだろ。それにここは……もう研究所じゃない」 「こわいよ、あんなのオレじゃない、オレは」 「大丈夫……大丈夫だから」 サトシの華奢な身体をレッドがぎゅうと抱きしめる。それでもサトシの身体の震えはとまらない。こわい、こわいと小さな声が何度も繰り返していた。それを痛ましいと思う。自ら人を殺めた記憶、焦げ付いた人間の臭い、全てが自分を苛んでいく。 「少し、落ち着こう。そうだ、ココア淹れてやるよ。ほら、な?」 穏やかに微笑んだレッドに少し安心したのか、サトシが小さく頷いた。 家の中に招き入れられてもサトシはレッドの衣服を掴んで離さない。サトシを居間に促し、自分は台所へ向かおうとレッドが振りかえると、まだ何も言われていないにも関わらずサトシは首を横に振り、衣服を掴む力を強めた。サトシ、とレッドがその名を呼んでも同じだ。サトシはいやだ、と首を横に振る。苦笑しながらその手を引いてソファに座らせ、自分もその横に並ぶ。その大きな目には涙が浮かんでいた。 「シゲルには、ぜったい知られたくない」 「嫌われたくないから?」 「けいべつされる、絶対」 こくん、と首を縦に揺らす。人を殺すということは重すぎる行為だ。許されるものでもないことはレッドとて重々承知している。思い出すのは幼い頃の自分。鮮烈な赤と命を失った肉塊。自分は一体あの時何を考えただろう、今ではもう思い出せない。 ――軽蔑されるのはきっと俺の方だ。 「なあサトシ。シゲルの両親の話とか……あいつが今まで色んな人間を殺したって聞いてどう思った?」 「え、どうって……」 「いやだったか?軽蔑、した?」 「そんなことない!」 サトシはまっすぐだ。どこまでもまっすぐに人を見つめている彼がレッドは好きだったし、シゲルもきっと同じだろう。サトシが眩しくてあたたかいからシゲルは救われた。 「シゲルも同じ気持ちだよ。サトシが楽しかったことや嬉しかったことだけじゃなくて、悲しかったことや苦しかったことも知りたいと思ってる。……きっとね」 「そう、なのかな」 「そうだよ。だってさ、シゲルもサトシがシゲルのことを好きなのと同じくらいサトシが好きなんだから」 照れくさそうに顔を緩めたが、それでもサトシの表情はすぐに陰ってしまう。 「けどオレはシゲルみたいに仕方なくてやったんじゃなくて、笑って……楽しそうにって」 「"死ぬ"ってことがわからなかったんだ。命の重さも知らなかった、わからなかった。今はちゃんと、わかるだろ?」 今にも泣きだしそうな顔をしていた。目は涙でいっぱいになり、サトシは苦しげに頷く。助けて欲しいと思っているのだろうか、抜け出したいともがいているのだろうか。 「だったら大丈夫」 「ほんとに?」 「本当」 レッドがそう少しの力を込めて首肯するとサトシは納得したのだろうか、少し表情を和らげて眉を下げて笑った。 「レッドさんが言うなら、きっとほんとだ」 「そうだぞ、俺は嘘吐かないからな」 ――それこそが嘘だろ、嘘吐き。 彼の言葉がよみがえってくるようだ。身体を絡め取り、這い上がるような影を意識しないようにすることは難しい。息が苦しくてたまらなかった。 お菓子の準備をサトシに頼んでレッドはココアを淹れようとやかんを火にかける。そろそろココア以外のものも買うべきか、と思案し始めるとグリーンを思い出して胸が痛んだ。知らなかったことを受け止めるということはその知らなかった期間が長ければ長いほど苦労する。そして、自分の責任が大きければ大きいほど喘ぎ、苦しまなければならないことだって多い。だが、それ以上に一人で抱え込むには重すぎる。グリーンはひとりで抱えていたのだ。彼は一人で頑張りすぎる。特別実験体の実験を一人で背負おうとしたことを思い出す。あの時は表面に見える傷を多数負っていた。ゴールドのことに関して、彼は目には見えぬ傷を負い、ドクドクと血を流していたのだろうか。 「レッドさぁん、このクッキーって」 「ん、クッキー?……ああ、それなら奥にもう一缶新しいのあるから出してもいいぞ」 「買いだめしてるんですか?」 「まあ、そんなとこ」 レッドがあまりに嬉しそうにくすくすと笑って見せるものだから、ああ、グリーンさんのためなのか、とサトシは理解した。こんな風にレッドが笑うのはいつもグリーンに関連した時ばかりで、少しだけ妬けてしまう。 「グリーンさん、そんなに食べるんですか」 「すぐなくなっちゃうからそうなんだろうなあ」 「はあ……ほんとに甘いもの好きなんだ」 居間のソファに座り、クッキーの缶を開封してその蓋を開けたサトシは少しだけ嬉しそうに顔をほころばせた。しかしなかなかその中身のクッキーと自分の知っているグリーンの姿が結びつかなくて、不思議そうな顔をしている。 「そんなに意外?」 「意外って言うか……うん、意外です。オレでもシゲルに、よくそんなに甘いもの何個も食べられるねえ、なんて鼻で笑われるのに」 「あはは、シゲルの憎まれ口は愛情表現だから気にすることないさ。ほら、ココア」 ことん、とテーブルの上にココアを置き、レッド自身もソファに腰掛ける。サトシはありがとうございます、とコップを受け取るものの、クッキーが気になって仕方ないらしい、そわそわとしている彼を見かねてレッドが食べていいよ、と促すと嬉しそうに手をつける。どれから食べるかはどうやら決めていたようだ、そんなあどけないサトシのことを眺めていると穏やかな気持ちになれる気がする。 「そういえばここ最近、グリーンさん見てないですね」 サトシの言葉に自分が今考えていたことを見透かされたか、と苦笑してしまいそうになる。そうだ、もう数日グリーンは帰ってきていない。今度はいつ帰ってくるのだろうか。 「まあ、あいつはいつもそんなもんだしさ」 「どこ行っちゃったんですか?」 「温泉探しに行ってる、とか……」 おんせん、とサトシがきょとんとした顔をする。そう、グリーンは傷を癒す効能のある温泉を探しに行ったというのだ。それも自分のためではなく、レッドのために。もっと自分のために動けばいいのに、とレッドは溜め息を吐いた。サトシとは方向性が違うかもしれないがグリーンもまっすぐすぎる。 「レッドさん、どこか怪我してるんですか?痺れ、またひどくなってるとか……?」 「え、なんで」 「だってグリーンさんが飛び回ってるときっていつもレッドさんのためじゃないですか!グリーンさん、ほんとにレッドさんのことが大好きなんだ」 ココアを飲み下しながらサトシは嬉しそうに笑っていた。レッドの中にはどろりとした黒いものが溢れだす。はたして、本当にそうなのだろうか、と。本当だったとしてもグリーンは頑張りすぎる。あまりに彼に負担がいってしまった時、彼が再び彼自身に刃を向けるのではないかと思うとぞくりと背筋が凍ってしまう気がした。彼、グリーンの手首には多数の傷が残っている。それは彼自身が自ら掻き切った痕。自分を想うならば本当はそんなことをして欲しくなかった。そんなことをさせないためにも自分はグリーンの負担を減らせるように少しでも、少しでも彼を想えたら。 「そうなのかなあ……」 「なんていうか、オレ、シゲルのこと全然知らなくて」 うん、とレッドは相槌を打つ。 「レッドさんと話してて昔の話とか、あいつの考え方とか知るんだ、いつもいつもオレ、何も知らないって思い知ってばっかりで……」 「そうだな、どんなに近づいても相手について知らないことっていっぱいあるもんだ」 「シゲルもきっとオレのこと、あんまり知らない」 「これから知ればいいんだよ、お互いにさ」 「だから」 ココアの入ったマグカップを見つめていたサトシがふいに顔をあげ、その瞳がまっすぐレッドを見た。その眼差しにレッドはドキリとせざるを得ない。サトシの瞳にはどこか力がある。光を抱いたその瞳は、強い。 「レッドさんとグリーンさんだってそうだって思うんです、オレは!」 「サトシ……」 「あの、オレ、なんて言ったらいいかわかんないけど……レッドさんがグリーンさんの話してるとき、すごく嬉しそうで、グリーンさんがレッドさんを見てる時、すごく優しい目をしてるんだって知ってるから、あの」 サトシの言葉が胸の痛みを少しずつ拭い去っていく。ああそうだ、自分だって何も見えていなかったのかもしれない。彼のためだと言って独りよがりになってはいなかっただろうか。 「そんな泣きそうな顔、しないで、レッドさん」 自分はきっと、ずっと泣きたかった。一人取り残されたゴールドの想い、それを知っていながら三年以上もの時間をずっと一人で抱え続けてきたグリーンの想い、それを考えるとどうしようもなくなるのだ。置いてきぼりにされた気分になる。どんな餓鬼だよ、と思うものの、本当はレッドにとってそれが一番怖かった。一人きりはもういやだった。自分だってその重いものを一緒に持って生きたかった。 「ありがとう、サトシ」 何も知らないことが一番怖かった。だけどきっと、それは自分だけではない。 グリーンが帰ってきたら伝えたいことがたくさんできた、と思う。ゴールドにもこの気持ちは伝わるだろうか、耳を傾けてくれるだろうか。自分は前を向けるだろうか。 未だに暗い迷路の中から抜け出せないままだったが、少しだけ光が見えた気がした。 |
2010.8.13 |