22/望んだものは-3 |
聞こえてくる規則正しい寝息が、今はただ恐ろしかった。早く目覚めて欲しいと思いながら、目覚めてしまったらなんと声をかけようかとも思う。どうしたら彼――グリーンは笑うだろう。どうしたら、いつも通りに戻れるのだろう。ずっと続く気がするなんて、そんなことはやはり有り得ない。現に、自分の理解を超えた出来ごとが起こってしまったのだから。 手首には擦り傷と紫へと変色した痛々しい痕。体中が傷むし、声もかすれてしまった。それは紛れもなく、あの信じたくない夢のような時間が事実なのだという証拠だ。 耳をつく甘ったるい声。絶望を孕んだ暗い瞳。ゴールドをそうさせてしまったのは何よりも自分自身だったのかもしれない。どうして、とどんなに考えたって何が彼のあんな言動の要因なのか、レッド自身には全くわからなかった。この三年間に何があったのか、自分には想像することもできないようなことがあったのだろう。 目が覚めた時、ひどいめまいと肌寒さを感じた。身体は重く、頭はがんがんと痛む。そして自分の記憶は全て現実なのだということを自覚してまたひどいめまいに襲われ、レッドは目の奥がぐっと熱くなったのを感じたが、それには気付かない振りをして目元をぬぐう。そうしてちらりと目に入ったのは開かれたままの窓とそこから覗く、欠けた月。痛む身体を無理やり起こして窓のへりに手をかけたその時に見えたものは、まぎれもなく今、ベッドで眠る彼が土を赤く濡らして倒れているその姿だった。自分が知っている人間の中でもかなり強い部類に入る彼にそこまで深手負わせたのは、疑う余地もない――ゴールドだろう。身体が重いことも忘れて彼を家の中に担ぎこみ、急いでその怪我を手当てする。蒼白だったグリーンの顔がいつの間にかなんとか血の色を取り戻していくのを確認して、ほっと息を吐いた瞬間、またずっしりと身体が重みを増すのを感じた。そして、眠ることもできずにただ彼が目を覚ますのを待つ今に至る。 「どうして、こんなこと」 グリーンは、自分が聞いたあのゴールドの言葉の意味を理解できるのだろうか。彼が、ずっとあの研究所にいたことを知っていたのだろうか。あらゆる疑問はグリーンが目覚めなければ解消する術はどこにもない。まずは現状を理解することだと目を伏せてレッドは部屋の隅にうずくまり、抱いた膝に顔をうずめた。 「ん、……」 布団のシーツの擦れる音と微かに漏れる声を聞いて、レッドは顔を上げてベッドの方をじっと見つめた。開かれる双眸をしっかりと見つめ、駆け寄りたくなる衝動がわく。だが、レッドは走ることもできなければ声をかけることもできない。中途半端に開かれた唇を閉じて噛みしめた。呻きながらも身体を起こしたグリーンは暗闇の中に視線をさまよわせ、求めている姿を探した。と、部屋の隅でさらに影に暗く影を作るレッドの姿を見つけ、眉を顰める。未だはっきりしない頭でも身体の痛みは理解することができるし、自分が気を失った時のことを反芻し、思い出すことができた。 「レッド」 自分の口から出た声がいつもよりひどくかすんでいる。小さく丸まった影はびくりと震えたのに返事は聞こえてこない。もう一度名前を呼ぼうと唇を開いたそのとき、本当に小さな、レッドの声が静かな部屋に響いた。 「ベッドの脇の台に……水と痛み止めあるから。効くかわかんないけど、飲めよ」 「なんで隠れてるんだ」 それからはまた返事もなく、グリーンは小さくため息を零す。でも、彼を責めることは誰にも出来やしない。 「レッド……顔、見せてくれ」 彼の頑なな性格を誰より知っている自信がグリーンにはあったし、きっとレッドもどうすればいいのかわからなくなっているのだろう。痛む身体を無理やり起こしてベッドから降り、部屋の隅で膝を抱いているレッドにゆっくりと近づいた。レッドはまだ気付かない。その顔を膝に埋め、泣いているのだろうか。 グリーンはふつふつとこれが"悲しみ"だと呼ばれるものであろう感情が胸を満たしていくのを感じながら、レッドの黒髪へと手を伸ばし、その頭を優しく、壊れ物を扱うように撫でて見せる。その時に初めて自分のそばにグリーンがいることに気付いたレッドはびくりと身体を震わせたのちに、ゆっくりと、覗き見るように顔を上げた。 「グリ、……ン……」 「すまない」 「なんで、なんでお前が謝るの」 包みこんでくるぬくもりに泣きそうになる。やめてくれと叫んでしまいそうな気持ちとやっと心底ほっとできたという気持ちが相反して頭がおかしくなりそうだ。レッドはその背中に腕を回すことができないまま、ただぼんやりとその腕に身体を預けた。 「グリーン、身体は……?」 「平気だ、……と言いたい所だが、お前に強がっても見破られるのがオチだろうな」 「よくわかってるじゃん……なら、寝てなきゃダメだろ」 「そうも言ってられないな。お前を放ってはおけないだろう」 ばかやろう、と小さくレッドが呟く。グリーンは何も言わずに抱きしめ続けていたが、不意に力を緩めてその唇におもむろに口づけた。レッドも拒絶せずそれを受け入れる。その瞳がぶれるように揺れていたのをグリーンは気付いていたのだろうか。 「情けないな……お前を傷つけずに済む言葉が、思い当たらないんだ」 「傷ついたりなんか、しない。大丈夫だよ」 「守れなくて、すまなかった」 「そんなっ……お前が謝ることなんて、ひとつもないだろ……」 「今度は守ると大口を叩いておきながらこのざまだ。それに、そのマヒがなければこんなことには――」 「俺は!!」 どん、とグリーンの胸元を強いレッドの力で押され、身体が離れる。レッドは顔を伏せているためグリーンにはその表情をうかがい見ることは出来なかったが、声音は怒っているに違いないものだった。 「俺は、グリーンにだけはそんなこと、言われたくない」 「だが……」 「手足、痺れて動かないことは確かにそうだけど、でもそれだけの所為じゃない。俺だってゴーに対して余裕な振りして……甘く見てて。だから、お前は悪くない。自分の所為だって思って欲しくないよ」 顔を上げ、レッドはグリーンの顔をまっすぐ見つめる。グリーンもそれからは目をそらすことなんてできない。 「それに、それを言うならお前だって痛かった、だろ」 撫でられるのは腹。今は包帯を巻かれているがきっとキューの痕が残っていたのだろう、レッドも何があったのかを少しはわかっているような口ぶりだ。グリーンは否定することができない。 レッドの手足の痺れとグリーンの傷を負った内臓は、互いに原因があった。思い出すのは研究所時代の戦闘訓練。身体の自由を奪われ、操作されたレッドと戦うことを強要されたグリーンは本気を出すことができずにレッドの攻撃を受けて自らの内臓に深い傷を負い、レッドはグリーンの暴走した"月"と氷の力によって手足の感覚を奪われたその後遺症を未だに抱えている。ゴールドは当然それを知っていたし、今回はそれを知られているからこそ負った傷も大きい――否、大きすぎた。 「ごめんな、グリーン……っ」 「俺に謝るなと言うなら、お前も、謝るな」 「でも!」 「お前が謝るなと言ったんだ。だから、俺は謝らない。どうせ言っても、嫌がるだろう? それに……俺も謝られたくはないからお前も、謝るな。それでいいんじゃないのか」 「いいの?俺……お前以外に、その、されたんだぞ?」 「いいも何も、お前の意志じゃないだろう。……お前がしたいと思って別の奴としてたなら、話は別だが、そんなことはありえないからな?」 「へえ、わかってるじゃん」 当たり前だ、と言ったグリーンになんとなくつられてレッドは笑い、ようやくいつもの二人に近づけたことを認識した。 だけどレッドには確かめなければならないことがある。それは、自分が抱いた疑問に対する答えをグリーンに求めるという作業。こうして大きな傷を負った彼が倒れていたところとはまた別に、森へと続く血のあとが大きく残されていたのをレッドは発見していた。それはつまり、ゴールドもまた深い傷を負ったということ。彼の殺意に応えるようにしてグリーンも戦ったということだ。だが、レッドは知っていた。グリーンはゴールドを嫌ってなどいなかったし、憎んでいることもなかった。ただ、ゴールドの話をするときはいつもふと悲しそうに目を伏せる。グリーンは、償いたい過去があると、そう言っていた。 「訊きたいことが、あるんだ」 「なんだ?」 「ゴーのこと、なんだけど。……あいつ、言ってたんだ」 本当に、訊いてもいいのか、言ってもいいのか、未だに思考は揺れる。だが、こんな中途半端に事実を知っているままはいやだ。あの研究所からの脱出の時、脱出に遅れたゴールドを迎えに行ったのはグリーンだった。真実を知っているのなら、彼だろう。 ――ずっと先輩にあいたかった。ずっとずっと、先輩がいる場所に一緒に俺もいたかった。 ゴールドの言葉は身体を這いまわるような、からみつくような声音で発される。まだ耳元に深く残っているその声は、悲哀をひどく孕んでいた。 「なんで、置いていったんだって。一緒にいたかったのに、どうしてって。それってさ、つまりあいつは」 言いたくなかった。認めたくなかった。レッドは気付いてしまった事実を拒絶したかった。だけど確かに残る彼の、ゴールドの言葉がそれを許してはくれない。 「あいつ……ずっと、ずっとあの研究所に、ひとり、だったのか」 「それは」 「なあグリーン、嘘つかないで教えてくれ。あの時、ゴールドだけ逃げ遅れたよな?俺、もう一回戻ろうとしたから覚えてる。それで、お前、自分が行くって言って、研究所にまた戻っていったよな」 疑うわけじゃないんだ、とレッドはすがりつくように答えを求めた。納得のいく答えが欲しかった。そうじゃないと、彼はちゃんと逃げたのだという答えが本当は欲しかった。 そんな答えがどこにもないことも、なんとなく、気付いていたけれど。 「あいつは、ゴーは……逃げられなかったのか?」 グリーンは躊躇っているようだった。言葉を探すように、でも何か溢れ出てくる感情を抑えるように唇を噛む。レッドの腕に添えられた手にもほんの少しの力がこもる。 「そうだ。俺は、あいつを逃がすことができなかった」 「じゃあ、やっぱり……」 「ゴールドは、研究所にいたはずだ。……特別実験体として」 「ゴーが……特別実験体、だって?」 自分たちがあの研究所に属していた時はゴールドは一般の実験体だった。それは研究員たちの言葉を借りるのならば"使い捨て"と言われていた存在。サトシやグリーン、レッドは特別実験体としての地位を与えられ、寝食と生を保障されていたが、一般実験体のゴールドは違う。いつも元気に振る舞っていた彼とて、いつも死に怯えていた。レッドはそれを知っている。 「俺があいつを迎えに行ったとき、既にそこには幹部の――ナツメがいた」 「ナツメってあの、髪の毛の黒くて長い女の……?」 「そうだ。あいつが、ゴールドに嘘を吹きこんで俺たちがあいつをわざと置いていったと、今から向かったとしてもそこには誰もいないと勝手なことを吹き込んだんだ。そして、ゴールドはそれを信じた」 「そんな……!!」 嘘じゃない、とグリーンは首を横に振った。レッドの中の絶望は段々と大きくなっていく。そんなばかな、とそんなことがあってたまるか、とグリーンの肩にすがる手に力がこもる。 「あいつ、"太陽"の適性者だった」 「え、それって」 「俺の"月"とお前の"光"、ブルーの"目醒め"、サトシの"雷"……あいつは最後の"太陽"の適性者だった。それも、その適応力は俺よりも、強いかもしれない。あの場で力を発現させたゴールドを俺は……なんとか、止めたんだ。でもその、止めた次の瞬間にはナツメに奪われて」 「それで、ゴールドは……そのまま……?」 「ああ。その後、廊下に毒ガスがまかれたと思ったと同時に一般実験体がなだれ込んできた。後を追いたかったが、もう……」 「そんなことが……」 「今まで言わないままで、本当にすまなかった」 グリーンの肩をつかんでいたレッドの腕が力を失い、するりと重力に逆らえずに落ちた。レッドの大きく見開かれた目からは一粒、涙がするりとその頬をなでるように零れ落ちる。音を立てずにレッドの唇が震えているのがわかった。彼の目に浮かぶのは、絶望だ。レッドもグリーンも特別実験体の実験の壮絶さを身にしみて知っている。だが、彼らの時は特別実験体の数も違う。それぞれに分担された実験をこなすだけでも毎日身体に傷は増えて、その傷が癒えるころにはまた違う傷が増えた。一度、グリーンが実験をレッドの分まで背負いこもうとしたことがあったが、その時ですらグリーンもいつか死んでしまうのではないかと思うほど衰弱していたことを、未だに二人とも覚えている。ゴールドは、一人で背負ったのだ。 ――ちがう、俺たちが……俺たちが背負わせたんだ。 そしてレッドは理解した。ゴールドのあの、深い闇を抱えた瞳の意味を。 「俺たち、なんてことを」 「違う、お前は何も――」 「知らなかった!……知らずに、あいつもどこかで笑ってると思ってた。それだけで、充分だろ?」 「そんなこと……」 「あるんだよ。よくよく考えればすぐにわかったことだろ?だって、あいつ、研究所の生まれで……両親が誰なのかも知らないって言ってた。つまり、ゴーは研究所を脱出したとしても俺たち以外に知り合いなんていないってことだ」 「そう、なるな」 「逃げ出したとしても……あいつ、絶対に俺たちのところに来たはずなんだよ……っ」 どうして、どうして気付けなかったんだろう。三年という時間は長すぎる。その時間の間に、どうして少しでもこの違和感に気付けなかったのだろう。 「あいつ……もう、研究所から逃げたのかな」 「それはわからない。研究所のあの実験体服でもなかった上に、あの――首輪もしてなかっただろう」 「ちゃんと話をしなきゃいけないみたいだ。もっと、知らないことが多すぎるから」 そうだな、と小さく言ったグリーンの肩口にまたレッドは顔をうずめ、その行き場のない想いを抑制しようと目を伏せた。 どれほどの絶望を抱えて生きてきたのだろう。どれだけ、自分は彼の想いを踏みにじってきたのだろう。ゴールドは乱暴にレッドを抱いたが、それはもしかして、"助けて"と言えなかった彼の想いだったのではないだろうかとも思う。 この身体の痛みは彼の痛みよりもひどく小さなもので、この滑り落ちる涙は彼の涙の量なんかにきっと勝てるはずがない。彼は、あの身体にたくさんの絶望と悲哀を抱いて生きることを強要されてきたはずだ。だからこそ"太陽"の力に目覚めた。目覚めてしまった。 自分がへらへらと笑って生きてきたこの三年間に彼はどれほどの痛みを受け、傷を負ったのだろう。 ――レッド先輩。 白い服をまとった未だ小さな彼の表情が柔らかくゆるみ、笑顔をつくる。 自分はどれほど、彼を殴りつけて生きてきたのだろう。 |
2009.12.12 |