16/空の下で-2 |
「……あいつ、遅くなるから中で待ってろって言ったのに」 少しだけ呆れ混じりの、でも優しい声でシゲルが呟くのを聞いて、レッドが視線を移すと、そこには懐かしいオーキド研究所が建っている。なんだかとても眩しい気がして目を細めて見たその光景の中にいるのは、玄関に寄りかかって片足をぶらぶらと遊ばせている少年だ。 「サトシ!」 「え…?」 シゲルが少しだけ歩みをはやめ、その少年に片手を上げて名前を呼ぶと、その少年――サトシが顔を上げてぱたぱたと駆け寄ってくる。その姿を確認しても未だ実感に欠けているせいでレッドは驚いて何とも言えないまま、横に並んでいたハナコが大きく息を吸ったのを聞いた。 「シゲル、おかえり!」 「こら、中で待ってろって言っただろ」 「だって何か音したし、何かあったん…じゃ、って…………」 「…ああ、この人達?僕の知り合いで――」 「……ママ…レッドさん…?」 サトシやレッドたちが同じ研究所から脱出してきたのではないか、という仮定はすでにシゲルの中にあったのは間違いではない。サトシに初めて会った時の服装とレッドが今着ているその白い服は形こそ違うものの、雰囲気が酷似していたからだ。サトシはひどくぼんやりとした、というべきか――呆然とした、と言った方が適切なのか――そんな呟きに限りなく近い震えた声を絞り出す。まさか同じ所から脱出してきたとはいえ、知り合いであることは可能性が低いだろうと予想していたシゲルは驚いてレッドとハナコを見た。 ――そうだ、会ったような気がしたのは、その所為か。 今ならわかる。サトシはとても母親のハナコに似ているのだ。 「サトシ…っ」 「…、ママ…!!」 心底安心したのだろう、サトシはぼろぼろと涙をこぼし、一目散にハナコの元へ駆け寄っていく。ハナコもよかった、と繰り返しては駆け寄ってきたサトシを強く抱きしめて再会を喜んだ。そんな二人を見ながら、サトシも無事だったんだな、とレッドも安堵の息をもらす。 「………レッドさん、サトシを知っていたんですか…?」 「うん…逃げながら、サトシのこと探してたんだよ」 「もしかして、サトシと一緒に逃げたっていうのは…」 「うん、俺とハナコさんと、あと一人。まあ他にもいるんだけど、サトシと一緒なのは俺たちかな。…聞いてたのか?」 「会った時に、それらしいことを言っていたので」 「そっか、そうだったのか……」 ぐずぐずと鼻を鳴らしながら顔を上げ、サトシはハナコの体を触り、見てはどこにも怪我はなかったか、大丈夫だったかと確認した。ハナコもハナコで、ばかねえ、母さんが怪我なんてするもんですか、私はサトシが泣いてないか心配で仕方なかったわよ、と笑いかけ、サトシはそんなことない、と焦って声を荒げる。 「嘘はよくないねえ、サートシくん?ぐずぐず泣いてたのはどこの誰だったかな?」 「ば…っ!何で言っちゃうんだよ馬鹿シゲル!!」 「まあ、やっぱり!だめじゃないサトシ、シゲルくんに迷惑かけちゃ」 「勘弁してよママ…!」 ハナコは心底安堵している自分自身を知っていた。ごく自然に表情をころころと動かして見せるサトシの姿を見るのはとても久し振りな気がして、やはりあそこから出ようと自分たちの手を引いてくれた勇気のある少年たちに感謝しなくては、と思う。 ――私一人だけの力じゃ、この子を守ることなんてできなかったものね。 「…ふふ、それにしても元気そうで良かったわ。シゲルくんのおうちにお世話になったのは良かったみたいね、ママ、安心したわ」 「うん、シゲルと博士に助けてもらった!ピカチュウもほら、元気!」 「ピッカ!」 ぎゅう、とハナコはサトシをピカチュウごと抱きしめ、よくやったわ、さすが私の息子ね、とその頭を撫でる。恥ずかしいよママ、とはじめは少しだけ抵抗したサトシもすぐ大人しくその腕に抱かれ、顔をほころばせた。 「レッドさんも!無事でよかった!」 「サトシもな。本当によかったよ、無事で」 抱き締めていたハナコの腕から解放されたサトシは本当に嬉しそうにレッドに笑いかけた。 「あの……レッドさん、グリーンさんは…?」 「あいつもすぐ来るさ。近くまで一緒だったんだけど、俺たちを逃がすのに追っ手を片づけてくれてる。だから、心配いらないよ」 「そっか…よかった……」 未だ見えない一人が無事であろうことを考え、サトシはほっと息を吐いた。よかったね、というシゲルの声に大きく頷き、嬉しそうに照れたように笑って見せる。 家に入りましょうか、と三人を促し、シゲルは玄関の扉を開けた。まずはオーキドに話をしなくては、と思いながらお茶を入れ、リビングに招き入れる。 「なあ、そう言えばシゲル、レッドさんと知り合いだったんだ?」 「僕の戦い方はレッドさんに教わったものだからね」 そんな大袈裟なものじゃないだろ、と笑うレッドに大事なことをたくさん教えてもらいましたから、とシゲルは笑いかけた。 「じゃあ、オレと同じなんだな!」 「サトシも…?」 「うん。オレも、ちゃんとした戦い方はレッドさんに教えてもらったんだぜ!」 「ちゃんとした、戦い方?」 「……あ、えっと…」 「サトシは力任せなところがあったからさ。力の使い方を教えたんだよ」 あからさまにしまった、と顔に書いてあるような気まずそうに言い淀んだサトシをシゲルが訝しげに見つめているのを横からレッドが笑いながら声を挟む。なるほど、と納得したように頷いたシゲルは嫌味っぽく笑いながら「あんまり進歩してないみたいだけどね、サトシくん?」と言って茶化して見せた。 それでもシゲルは、サトシがしまった、と顔を歪ませた瞬間、横のハナコの目が少しだけ遠くを見つめ、影を孕ませていたことに気付いていた。 「ちゃんと考えてやってるじゃんか!」 「そうかなあ?」 「そうだよっ!」 「はいはい」 くすくすと楽しそうに笑うシゲルがなんだかとても不思議な気がして、レッドは目を細めた。そして気付く。 ――ああ、シゲルはサトシのお陰で変わったんだ。 そう本人が知ったらなんて言うんだろう、どんな顔をするんだろう。そう思うとなんだかとても優しい気分になれる気がした。 「レッドさん、どうかしたんですか?」 「あ…え?」 「なんか変ですよ、レッドさん」 「あはは、ちょっとぼうっとしてただけだよ」 訝しげに見つめてくるサトシとシゲルに誤魔化すように笑いながら、レッドはお茶をすすった。ほっとしたように笑うサトシとは裏腹に、シゲルはいまだじっと見つめてくるため、緊張してたから気が抜けたのかも、と言葉を付け足す。 「そうですよね……疲れたでしょう、ゆっくり休んでください」 「ああ、ありがとな、シゲル」 サトシもシゲルも、優しく笑うようになった。それは二人にとってプラスになったのだろう、こんなにも穏やかに二人が過ごすだなんて想像もできなかった。それでも、レッドにはそれがこれからも必ずプラスになるとは思えなかった。このままじゃ迷惑がかかることは分かっていたし、第一、自分たちはまだ立ち止まることができないのだ。 「あのさ、シゲル……少し休ませてもらったら、俺たち、やっぱり行くよ」 「…え……?」 「それから、サトシも。迷惑かけるわけにはいかない」 「な、サトシも!?」 「もともと一緒に逃げる予定だったんだ。事情があって一回は離れてたけど……サトシをあいつらに渡すわけにはいかないから」 カタン、とコップを置く音が、ひどく響いた気がした。サトシはわけのわからないと言った顔をして混乱しているし、シゲルは唇を噛んで目に見えて狼狽していた。ハナコだけは背筋を伸ばし、その手を揃えて膝の上に添えている。覚悟ができているのだろうな、と思いながらレッドは言葉を続ける。 「……あいつらは、サトシを取り戻すためなら何だってする。だからここに俺たちがいるわけには、いかないんだ」 「待ってください!……あいつら…って、ロケット団のことですか」 「サトシから聞いたのか?」 こくん、と頷くシゲルを見て、ならわかるだろ、と言おうとしたレッドはシゲルの口元がゆっくりと開かれることに気づき、動かせようとした口をつぐみ、シゲルの言葉を待った。 「今まで、どうしてサトシが無事だったと思っているんですか?」 「それは、お前が…」 ――解ってる。お前の強さは自分の目でちゃんと見たよ、シゲル。 だけど本当はそれだけじゃないんだ。それは建前でしかなく、ここにはいられないと思う本当のところはまだ別のところにある。それは未だ言うことができず、レッドはじっとシゲルの言葉に耳を傾けることしかできない。 「でしょう?今まで何度か襲撃に遭いましたけど、全部返り討ちにしてきたんです」 「だからってこれからも大丈夫って保証はないんだ」 「大丈夫ですから」 「…お前がかなわない相手だって、いずれくる。あいつらはそんなに甘くないんだ」 お願いだからわかってくれ、とレッドは繰り返す。それでも負けじと反論するシゲルの真っ直ぐな目を見ていると諦めることはないのだろうと思う。それでも。 ――そんな目をするほど、お前の中のサトシの存在は大きくなったのか。 眩暈に似た感覚が走る。ああ、どうして、と自分が嘆いてはいけないだろうか。ちらりとハナコを見る。彼女の視線はシゲルに注がれている。一体彼女はどんな思いでここにいるのだろう。 「かなわない相手なら、一緒に逃げますよ」 本気なんだな、とレッドはゆっくりと目を伏せた。実のところのシゲルが以前から頑なであることは知っていたし、解っていた。今受け入れられないというのならばもうこれ以上言ったとしても彼が頷くことはないだろう。 「……オレ、レッドさんとママと、いく」 静寂に波紋を落としたのは、サトシの強い声音で紡がれたその言葉だった。 「ここ、出てく」 「サトシ、何、言ってるんだよ…」 その場にいる全員の視線がサトシへ注がれた。サトシは俯いており、どんな表情をしているのかは窺えない。その膝の上に乗せられた手は痛いくらいに握り締められているだろう。 何度も大丈夫だと伝えた。絶対に守ろうと決めた。これからまだまだ自分は強くなるし、サトシも強くなる。そう、シゲルは思っていた。それでもまだサトシは出て行くというのか。 「……その方が、いいだろ。何回も迷惑かけたのは、本当なんだし」 「いいわけないだろう!」 「だって、あんな怪我したシゲルはもう見たくない!!」 ああ、泣きそうだと、思った。 「あんなの、もう…嫌なんだよ……!シゲルに『責任』なんて負わせたくない…」 「……サトシ…」 「だからオレ、レッドさんとママと行く。行かなきゃいけない」 ――いい機会だ、なんて思いたくなんてない。だけど。 それでも、行かなきゃいけないのは本当だった。あの場所の脅威を知っている自分は出て行かなければいけない。そう思っていた。 「嫌だ」 「…シゲル?」 「……君がいなくなるなんて、嫌だ…!!」 シゲルがサトシに対して多少なりの執着心を抱いていたことは先程の会話で汲み取ることができていた。 ――だけど、ここまでなんて。 何事に対しても興味を持つことができず、執着心を持つことを誰より恐れていたシゲルだった。彼がそう言うことができるようになるだなんて思っていなかったし、サトシは一体彼に何をし、何を言ったのだろうとすらレッドは思う。 「シゲルくん」 ふと、ハナコが顔を上げた。シゲルがそちらに視線をやると、再び既視感に襲われる。このまなざしは、真っ直ぐにものを見る目は、サトシのそれと同じなのだ。 「私たちが把握できないほど、ロケット団は大きな組織だわ。きっとあなたもそのすべてを知っているわけではないと思う」 「…はい」 「あの場所は、過ごしてきた私たちだからこそわかる、恐ろしさがあるの。彼らは目的ならば手段を選ばないし、今までだってそうしてきた。そして、きっとこれからも変わらない」 ハナコはふう、と息を吐く。その目元が少しだけ和らいだ。 「覚悟は、あるのね」 「あります。僕は自分が守ると決めたものを守れない自分を……一番、憎んでいるから」 「…うちのバカ息子と一緒に、よろしくお願いします。お世話になるわ」 「ママさん!」 「いいのよ、レッドくん。まだグリーンくんも合流していないじゃない!また、彼が現れてからこれからのことは相談しましょう?」 「……でも、…」 「今までずっと野宿続きだったわ。あなたの体も休めなくちゃ。私ももう疲れちゃって。年ってだめねえ」 ふふ、と笑い、ハナコはお茶を口に含む。彼女の言う通りであり、何も反論はできないな、とレッドも肩から力を抜いた。今焦って出たとして、自分たちは連日の野宿で体が硬くなっているし、体力も体調も万全とは言えない。第一、自分たちの中で最も力を持っているグリーンは未だに合流できていないままでは確かに心許ないだろう。 「で、でもママ……それじゃ、あいつらが…」 「だぁいじょうぶよ!ママ、シゲルくんが闘ってるのを見て感動しちゃったわ。それに、レッドくんだって居てくれてるじゃない。……あなただって、闘えないわけじゃないわ。ピカチュウもついてくれてるしね」 さすがのハナコの言葉にはサトシも納得せざるを得ず、うん、と小さく頷いてピカチュウを抱きしめた。 「それに、ここにかたまってたらきっとグリーンもすぐ来るだろうしな。ガードマンにちょうどいいさ」 「あの、さっきから気になってたんですがその…グリーンさん、って……?」 「バカみたいに強いやつがいるんだよね。…そいつも、俺もいるからさ。大丈夫だよ、サトシ」 「…、……ここに、いてもいいの?」 「そう言ってるだろ、当たり前じゃないか」 よかった、と心底うれしそうに、サトシは目を細めてふわりと笑った。 「じゃあ、暫くはお世話になるよ、シゲル。博士にもあいさつしなきゃなあ、ママさん!」 「ええ、そうね。…あらあら、お世話になるっていうのにお菓子の一つも準備してきてないわ」 「そんな、いいですよ…!」 そんなわけもいかないのよ、と言うハナコをなだめながら、部屋にまた笑いが戻ったことにレッドは安堵した。サトシとシゲルは楽しそうに笑い合っているし、ハナコも漸く待ち望んでいたサトシとの再会の後だ、とても優しい顔をしている。 それでも不安は拭いきれない。未だ告げられぬままの真実が、さらに自分たちに色濃く影を落としていることをレッドは知っていた。それはハナコも同じ。 ――まだ、笑えるのなら。 少しでも、前に進めるように。 |
2009.9.5 |