09/見えない傷-1 |
凍てついていた心が少しずつ解け、柔らかな日差しに穏やかな時間を感じることが増えると思っていた。マサラタウンにいればきっとはぐれた、あの人たちとも会えるだろうと――そう思いながら過ごしていた。 「そろそろ博士が帰ってくる頃かな…」 「はやく帰ってこないかなあ」 「ピカチュウがいないと落ち着かないね、君は」 「だって、いつも一緒だから…なんか……」 「うん、そうだよね」 ピカチュウは珍しくサトシのそばにはおらず、オーキドとともに出かけていた。ピカチュウがサトシのもとを離れるのはマサラに来てからは珍しいことで、帰りを待つサトシの姿はそわそわと落ち着かないようだった。すぐに帰ってくるんだから、とシゲルが笑えばサトシは複雑そうな顔をしてからつられたように笑ってみせる。 その時、玄関の呼び鈴が部屋に響き、二人は同時に顔を上げる 「ん?お客さん?」 「………出てくるね」 「…シゲル…?」 どこかシゲルの態度がおかしい気がしてサトシは首をかしげるが、シゲルはそのまま玄関へと消えてしまう。顔は笑っていたが、無理しているような、本当は行きたくないような――そんな雰囲気を感じた気がしたのだ。 「……どなたですか?」 「こちら、オーキドさんのお宅ですか?宅配便でーす」 「…ああ、ありがとうございます。今、あけますね」 ――震えるな。 シゲルはぐっと指先に力を込める。気分が悪くて仕方がなかった。目の前がちかちかと暗くなりそうになるのを感じて、足元にもぐっと力を入れて立つ。大丈夫だと何度胸の内で唱えただろう。何もないから、何もない、大丈夫だから。 がちゃ、と扉を開けばにこやかに笑い、荷物を持つ宅配員の姿がそこにある。荷物の大きさは彼が両手で持てる程度で少し大きいようだった。 「こちら、お荷物です。えっと、大丈夫ですか、持てます?おとなの方とかは?」 「大丈夫です、ちょっと今いないので…自分で運びますから」 「そうですか!では、こちらにサインか印鑑いただけますか?」 「…はい、」 胸のポケットに差していたボールペンを手早く取り出し、指定された位置に手早くサインをするとまた青年が笑った。 「ありがとうございましたー!」 軽く会釈しあってから扉を閉じたシゲルは荷物を玄関に少し荒く置き、ずるずると崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。カタカタと震える自分の肩をぐっとおさえて深く呼吸し、少しでも落ち着くようにとそれを繰り返す。そして、荷物へと視線を戻し、立ち上がろうと足元に力を入れた。 「……にもつ…はこばないと…」 ――もし、"あの臭い"がしたら? 胃の中がひっくり返りそうだった。突然よぎったその思考にとらわれ、シゲルは入れた筈の力が瞬時に抜け、視界が急激にぐるぐると回るような感覚に襲われた。そんな筈はないのに、記憶があの臭いを連れてくる。鼻が焦げたような臭いをとらえた気がして泣きたくなる。 ――とうさん、かあさん 「…?シゲルー?なんかでかい音したけど大丈夫か?荷物運ぶの手伝う――…シゲル!!」 宅配の車が去る音がしたのにいつまでたっても部屋に戻ってこないシゲルを不思議に思ったのか、サトシが玄関へ向かえばそこには顔色が真っ青でその場に倒れこんでいるシゲルの姿があった。 「お、おい!大丈夫か!?どうした…!?」 「――、!!…う、え……」 「うわ!なにす――っ!?」 倒れたシゲルの身体を抱き起そうとするとシゲルがそれを拒むようにサトシを払いのけ、またその場に倒れ込んだ。何が起こっているのかわからずサトシは予想しなかったシゲルの払いのけにそのまま尻もちをついた。何をするんだ、と言おうとしたその瞬間、シゲルが口元に手をやったかと思うとそのままその場に嘔吐した。 ――この臭いは、嫌だ。誰か、だれかだれかだれか… 苦しそうに目からぼろぼろと涙をこぼし、喘ぐようにして胃の中のものを吐きだしながらシゲルは視界の端で荷物をとらえ、また胃が収縮するのを感じた。喉を焼く胃液しかもう出てこないが、それでも吐き気は止まらなかった。 驚いて呆然としていたサトシだったが、はっと我にかえってシゲルの背中をゆっくりと撫でる。どうすればいいのかわからなかったのだろう、それでも、とシゲルの背中を撫でるその手つきはどこか不器用で、どう扱っていいのか悩みながらも撫でているのがうかがえた。 「……シゲル、立てるか…?部屋まで歩ける?」 「は…、……っ、う…」 吐き気はおさまったのか少し身体を起こそうとしているらしいシゲルの顔を軽く覗きこんでサトシが訊いても返答はない。呼吸を整えようとしているのか、胸元の服をぐっと握ってシゲルは荒く呼吸をしていた。 ――ちがう、おかしい、これ。 その症状が過呼吸だとは知らずとも、シゲルの今の呼吸音が正常でないことくらいはサトシにもすぐわかった。喘ぐように荒い呼吸を何度も繰り返すシゲルの視線は虚ろでなにも映してないような、何も目に入っていないようだった。目は大きく開かれ、よほど苦しいのだろう、喉をかきむしるようにしてシゲルは体を丸く縮めていた。 「――何やってんだよ、シゲル!!」 「っ、」 「うわっ!?」 「っはあ、は…」 喉をかきむしる手を掴んでやめさせようとしたサトシのその腕を弾いてシゲルはサトシに馬乗りになった。その虚ろな目はサトシに視線を向けているのに確実に彼の視界にサトシはいない。ぶるぶると震える指先は想像できない力を孕んでおり、ぐっとサトシの首をとらえた。大きく見開かれた目からこぼれるシゲルの涙がサトシの頬へ落ちる。なんで、なんでシゲルがこんなにも苦しそうに泣いているのか、サトシにはわからなかったしどうしたら彼が止まるのか、サトシにはわからなかった。強い力に捕らえられた首がみしみしと音をたてているような気すらして、酸素が足りない頭が熱くなっていくのを感じる。 ――いたい、こわい、くるしい。 「どう、した…んだ…よ……っ」 締め上げる腕をつかみ、それを引きはがそうとするが力が入らない。泣きたいのはオレだ、とサトシは思う。どうして、なんでこうなったんだよ。 「ころ、す…は、あ……ぼくが、ぼくが……」 シゲルは苦しそうに喘ぎながらそれでも目には暗い殺意が浮かんでいた。殺す。殺すんだ、僕が殺す。そう繰り返すうちに、薄くシゲルが笑うのをサトシは揺らぐ視界の中に見た。 ――何で泣きながらそんなこと、言うんだよ。 首を絞める腕に触れる手からゆっくりと力が抜けていくのを感じ、意識を手放そうとした。 「――ッ…げほっ!かはっ…!」 「大丈夫か、サトシ!?」 突然、酸素を取り戻してサトシは大きく咳きこんだ。首に手をやると、もうそれは自由になったらしく、力を込められいてた部分はあつい熱を持っていたが覆っていた手はもうそこにはない。 顔を上げるが視界はまだはっきりとしておらず、ぼんやりとした人影をとらえる。声でその場にいるのはオーキドだと判断すると、サトシは安堵してゆっくりと呼吸を取り戻そうとぜえぜえと息を吐く。 「は…はか、せ…?」 「そうじゃ!すまん、ワシが早く帰っていたら…!!」 「しげる、は……」 「…失神させた。そうするしかなかったのじゃ…」 顔を歪めたオーキドがちら、と向けた視線の先にはシゲルが倒れているのが見えた。顔はこちらを向いてはおらず、なんとか呼吸と視界を取り戻したサトシはざわざわと胸が騒ぐのをこらえてまたオーキドへと視線を戻した。 「……シゲル…なんで…?」 「………後で話そう。とりあえず…シゲルをここから遠ざけんと」 「え?」 「…シゲルがこうなったのは、あれのせいじゃからな」 そしてオーキドが指をさした先にあるのは先ほど届いた、荷物。この状況の中で何もないようにそこにある荷物はどこか異質な気すらさせる。サトシにはオーキドが言っている意味がわからず不思議そうに荷物とオーキドとシゲルを見比べた。 「…にもつ……?」 「……奥で話そうかの、サトシ」 「はい…、」 シゲルを抱き上げ、オーキドは不安そうな顔をしてるサトシに微笑みかける。その笑みを見ると大丈夫だと言われた気がしてサトシのざわつく胸は少しだけ落ち着いていく。頷いて立ち上がり、オーキドの背中を追って部屋の中へ入っていった。 ***** 「待たせたの」 「……」 「改めて…さっきはすまんかった。シゲルがひどいことをして…」 「い、え…」 シゲルは、とサトシが言うとオーキドはゆるやかに微笑み、上でちゃんと寝ておるよ、と答える。顔色も随分良くなった、今は休ませようと目を伏せたオーキドは一体何を考えていたのだろう。先程のシゲルの言動のことを考えていたのだろうか。 確かにあの時、シゲルの目には殺意があったし、彼はその口で殺す、という言葉を何度も繰り返した。悲しい憎悪。なぜ、自分と同じだけしか生きていない彼はそんな感情を抱いてしまうのだろう。苦しそうにしながら、悲しい気持ちを抑えて、でも抑えきれずに泣いてまでどうして。 「………シゲルの傷は、まだ痕にはなってくれんのじゃな…」 俯いていたサトシはゆっくりとオーキドへと視線をやる。傷。確かにオーキドはそう言った。シゲルはあの華奢な身体の中に強い意志と、力を持っていることはサトシは十分に感じていた。だが、その中にある心がどくどくと血を流し続ける傷を負っているだなんて想像したこともなかった。マサラタウンは穏やかな町だ。オーキドの研究のために危険にさらされることがあってもシゲルがちゃんと守ってきた。そういった使命はあってもそれ以上の傷を持つようなことがあるだなんて思いもしない。サトシはもっと暗い場所にいた。暗い場所で、悲しくて苦しいことをたくさん経験した。だから余計に、であろうか。 「きず、って」 「……両親じゃよ」 「りょう、しん」 ――ああ、それは知ってる。両親。ママと、パパのこと。 そうじゃ、とオーキドは頷く。サトシはじっと彼を見つめ、次の言葉を待つ。 「シゲルの両親がなぜここにおらんのか…前に君が訊いていたの」 「……」 「…死んだんじゃよ、二人とも」 「え、死ん、だ…?」 「……真っ黒に焼け焦げた死体を…シゲルに見せて、の…」 「そんな、なんで…!」 どうして、というサトシの問いに対してオーキドは首を横に振ることで答えた。それは、わからないと。 「…どうしてかはわしも知らんのじゃ。しかしある日、別に暮らしていた筈の二人からの連絡が突然途絶えた。一年待っても何の音沙汰もなく、捜させようとした矢先じゃったよ…死体が送られてきたのは」 「送られて、きた…」 「………玄関の呼び鈴が鳴って、その時ワシは手が離せんかったから…シゲルが応対しに行った。宅配便じゃった。妙に大きい段ボールの…」 宅配便、先ほどの状況と一緒だ。玄関の呼び鈴が鳴り、あの時すでにシゲルは少し様子がおかしかった。そして玄関に行き、荷物を受け取り――サトシが玄関に行った時にはもう。 シゲルは思い出してしまったのだろうか、昔のことを。だからあんなにも苦しそうにもがいていたのだろうか。 「シゲルの叫び声が聞こえて、慌てて駆け付けたら…ダンボールは開いていての。………焼け焦げた死体が入っておった。形すらもうわからない、それが二人だと判断するのもちゃんと確認せんだらわからんようなむごいものでの…。あの子の両親だとわかったのはその一番上に少し傷ついた、ペンダントがあったからじゃ」 「ペンダント…」 「そう、今じゃあの子がいつもかけているあれじゃよ。……シゲルは、ひどく錯乱しておったよ。髪も顔ものどもかきむしり、泣き叫んで…呼吸もまともにできとらんかった。きっとわかったんじゃな、そのペンダントの持ち主が誰だったのか、幼いながらに覚えて居ったんじゃろう」 「それで、さっき遠ざけようって…」 「そうじゃ。…あれは、シゲルの過去の傷をえぐるものじゃからな」 だが過去のものだと思われていた傷は、今でも真っ赤な血を流し続けていたのだ。その傷を忘れようとすらシゲルはしていない。それは胸元のペンダントその証拠だろう。むしろ彼は忘れまいとしているのだ。その時の傷を、悲しみを苦しみを憎しみすら。 「……そっか…だからチャイム鳴った時もなんか変だったんだ…」 「昔はチャイムが鳴るだけでも怯えておったよ。君がシゲルに会った頃のように笑うようになってからは悟らせんようにしていたが」 「…ひどい、そんなの…」 「シゲルが心を閉ざした理由も、殆どそれが原因なんじゃよ」 そんなの、と思った。ひどすぎるじゃないか、どうして、シゲルがどうしてそんな目にあわなくちゃいけなくて、シゲルのママとパパがどうして。気持ちはコップから溢れ出した水のように止まらず、涙となって形になる。サトシの目からぼろぼろと溢れ出した涙は机の上に落ち、顔を歪めて泣いている彼に驚いたようにオーキドは目を見張った。 「さ、サトシ!?」 「あんまりだ、そんなのっ……何でシゲルが…シゲルのママとパパがそんなめにあわなきゃならないんだよ…!!」 「…君は、やさしい子じゃな…」 「やさしくなんてない…だって、だってそんなことするほうがおかしいんだ…!!」 「……ああ、本当に…そうじゃな…」 「っ……」 きっと、泣きたいのはオーキド博士で、泣きたいのは、泣いてるのはシゲルなんだとサトシは思う。シゲルのママとパパということは、どちらかが博士にとっての子どもで、シゲルにとっては二人ともかけがえのない親なんだ。だけどシゲルは泣かない。少なくとも、それを人に見せることは絶対にしない。ならその分、その分は俺が泣くから、とサトシはぽろぽろとこぼれる涙を拭おうともせずに流れるがままにしていた。 「はんにんは、つかまったんですか?」 「…いや…」 「……そ…なんだ…」 「………犯人がわかって捕まっていたら…とうにシゲルは死んでおったじゃろう。それを考えれば、見つからなくてよかったのかもしれん」 「え…?」 「シゲルは…。あの子は、君に会うまで復讐のために生きておったようなもんじゃったから」 「そんなの…つらいだけじゃないか…」 「つらいことすら、あの子にはわからんかったんじゃよ。生きていることが苦痛すぎたんじゃ」 「…シゲル……」 どんな想いで生きてきたんだろう。どんな想いであんな風に笑うようになったんだろう。それから、オーキドはどんな想いで自身の孫の姿を見ていたのだろう。 「……サトシは、シゲルが導術を使ったり戦闘訓練をしているところを見たことがあるかの?」 「…、いえ……」 「あの子は、自暴自棄になったような…自分も傷つけてしまう力の使い方をするんじゃよ」 「……」 「仇を討てるなら、自分はどうなってもいいと思っておったんじゃろうなあ…」 「そんなの、だめだ……そんなの、みんな悲しい…」 殺す、僕が。僕が殺す。そう繰り返したシゲルをサトシは知っている。やっとわかった。両親を殺した人間を、仇を自分がこの手で討つ。そう彼は繰り返していたのだ。苦しかった。その時は全然わけがわからずにどうすればいいのかわからなかったけれど、今となってはその時のシゲルのことを思い出すと苦しくて仕方がなかった。 俯くサトシを見つめながら、オーキドはなんて素直な子どもだろう、と思う。優しく不器用な、シゲルに必要なのはこのあたたかさなのだろうとオーキドは思ったし、サトシが今ここにいてくれてよかった心底思った。シゲルは変わった。まだ変わっていくだろう。いつか、いつか彼の血を流す傷が痕になれば。その痕すら消えればいいとは言わない、せめて痛みを伴う傷でなくなれば。 「………そうじゃの、きっと、みんな苦しかった」 「それで…もし死んじゃってたら……博士だってシゲルと同じ想い、するじゃないか…」 「大丈夫じゃよ、もうそんなことはないからの」 「――…ほんと…?」 「本当じゃとも……サトシが、シゲルを変えてくれたじゃろう?」 そう言うオーキドの目は優しい。とても安心しているように目を細めて確かに微笑んでいる。サトシは予想もしていなかった言葉に驚きを隠せないまま、じっとオーキドを見つめた。 「あの子は、君のお陰で変わった。楽しいことや嬉しいこと感じておる。大丈夫じゃよ」 「……う」 「さ、サトシ…?!」 「よか…っよかった…」 「っ…」 「まだ…ずっと、つらいばっかりじゃなくて、よかった…」 「……そうじゃな…」 ぐず、と鼻をすすり、目元を乱暴に服の袖でごしごしと拭い、振り払うようにしてサトシは顔を上げる。 「でも!……でも、いつか仇が見つかったら…シゲルはどうするんだろ」 「……それは、わからん。シゲルに訊いてみんことにはな…いや、あの子自身わかっておらんかもしれん」 「…よし、オレも捜すの手伝う!!」 「は?」 「んで、見つけて、頭地面にくっつけてゴリゴリするくらい土下座させてやるんだ!!」 「………」 「…え、あれ?な、なんか変なこと言った…?」 「いや、」 くすくすとオーキドは笑いをこぼす。そして気付くのだ。この太陽のように明るい子に救われていたのは、シゲルだけではなかったことを。すがすがしい気分だった。この子のように素直に、まっすぐに思って居られたらどんなにいいだろう。自分の年を忘れて羨ましいとすら思ってしまう。彼の、サトシのあたたかさは不器用だが心地よいのだ。 「君らしいと思っての」 「ど、どういう意味ですか…?」 「なんでもないぞ?」 「…んー…まあいいや、オレ、がんばって手伝いますね!」 「ああ、ありがとう」 「へへ…」 あたたかい手に頭を撫でられるのは好きだ。ママはいつもそうして自分を褒めてくれる。まだ再会できていない不安は残るけれど、それでもオーキドの手もあたたかくてサトシは好きだと思った。目を細めて笑う姿は、やはり年相応の少年だった。 「さて…シゲルの様子を見に行こうかの」 「あ、オレも……、…行かない方が、いいですか?」 「いや、来て欲しい。サトシがいればシゲルは安心するじゃろうからな」 「はい!」 いつかその傷口がふさがりますように。サトシはぐっと拳を作り、自分が出来ることはなんだろう、とぼんやり思いながらオーキドの背中を追った。 |
2009.5.16 |