02/森の中で-2 |
夜は暗く更けていく。時間はどこまでも人には平等であり、どうあがらおうが変えようがないものだ。取り戻したい過去をどれほど求めたとして、またその時点に戻ることなど不可能でしかない。 森の夜の訪れは、早い。空はまだ明るくとも、森の中に居れば周囲は闇が支配してしまう。 「……ここまで来ればいいか…」 「さすがに、今はもう追ってこないんじゃない…?」 歩みを止めたグリーンにレッドは少し控え目な声でそう話す。グリーンは聞いているのかいないのか、みずのいしを取り出してそれを割った。すると、そこから濃い霧が発生し周囲を取り巻き始める。 「目くらまし?」 「それも兼ねているが、主な使い方は周囲の監視だ」 「へえ、そんなこともできるんだ」 「導術は応用すれば色々な用途がある。これは水属性でしかできないがな」 「すごいんだなぁ」 「…別に…」 グリーンの説明を聞きながら、レッドは素直に感心したように頷いている。周囲はすっかり白く曇り、数メートル先の光景すらもう視界には見えなくなってしまった。研究所の追手がどのように追ってくるか、何を考えているのかはわからない。何重もの警戒は必要だった。 ――それに、もしかしたら。 もし彼が追ってきたら、真っ先に見つけることが出来る筈だから。あくまでそれは言わずに、グリーンは目をそっと伏せた。 「俺も色んな使い方、覚えたつもりなんだけどなぁ」 「ふん、まだまだだな」 「んー…他の属性、苦手なんだよ」 「…俺は水属性しか使えないがな」 「極めてるからいいだろ?」 「……極めてない」 話すことが苦手だったグリーンは、レッドが様々な話を振ってきては単調に返し、また話しかけられては簡単な返事で話を終わらせようとする。それでもぽつりぽつりと話してくるレッドは、何かを考えないようにしているかのようだ、と気づいたのはそんなやりとりを繰り返している時だった。 はぐれてしまったサトシは、ピカチュウは、サトシの母親はどこへ行ってしまったのだろう。無事にマサラタウンに着いたのだろうか――霧の範囲の中には見当たらない以上、近辺にいないことは間違いない。 「あんなに扱えてるじゃん、導術」 「扱わざるを得ない状況にいたからな」 「……そう、だな」 思い出すのは地獄のような日々。同じような実験体が命を失い、ごみのように捨てられていくのを毎日見つめながら生きてきた。いつ、自分がそうなるのかもわからなかった。暗い研究所の中では気分も暗がりへと沈んでいく。でも、今はもうあの場所にいるわけじゃない。人を殺さなければ生き延びることが出来ないだなんて悪夢の日々はもう終わったのだ。 レッドはちらと、グリーンの方を見る。彼はいつ見ても無表情で感情を読み取りにくい。物心ついてから殆どの時間を研究所で過ごしてきた彼は今、一体何を考えているのだろう。 「お前は、さ。やっぱり導術なんか覚えたくなかった?」 「そうだと言ったら?」 「……んー、あんまり使わせたくないな」 「…安心しろ、好きで使ってるんだ」 「ほんとに?」 「ああ」 「なら、よかった」 その時、グリーンが少しだけ微笑んだことにレッドは気付き、顔をほころばせる。感情を読み取りにくい彼だからこそ、ふとしたときに見せる優しい表情があたたかくてたまらなくなる。砕かれた心を、彼は少しずつ取り戻すことができるのだろうか。心から笑える日が来ればいい――レッドはそう思いながら笑みをこぼす。 「じゃあ、この霧での監視頼むな?」 「任せておけ。…お前は少し休んでろ」 「え、なんで?まだ元気なんだけど」 「ここからマサラまでしばらくある。…体力は出来る時に回復しておけ」 グリーンに比べ、レッドは持久力や体力がない。それを気遣っての言動だとわかり、レッドは申し訳ないと思いながらも嬉しかった。これは彼なりの優しさだし、自身の体力がないのは本当のことだ。あとで足手まといになっては冗談ではすまなくなる。 「ん…わかった。ごめんな」 「謝らなくていい」 「じゃあ、ありがとう」 二人してそこに座り、持っていたほんの少しの荷物を置く。中には導術を使うための石くらいしか入っていなかったのだが。レッドは黙ったまま俯いているグリーンをじっと見つめている。 「……どうした?」 「いや…お前って会話、すぐ終わらせちゃうなあって」 「…会話は、苦手なんだ」 「おしゃべりするの、嫌いか?」 「嫌いじゃないが…どんな話をすればいいのか、よくわからないんだ」 「他愛ない雑談とかさあ…」 「……それがわからないんだが…」 困ったような顔をしているグリーンを見ながら、レッドも話題を提供するために何かないかと思考をめぐらせる。確かに二人は研究所で出会ってから大した時間を一緒に過ごしたわけでもなければ、楽しかった共有の思い出があるわけでもない。むしろそれに関しては、共有の過去は残酷で思い出すのがつらいものがあまりに多すぎる。 「うーん…小さい頃の話……は、他愛なくないよなあ」 「姉さんの話も、たいして楽しいことはないからな…」 「……うーん…」 「…そういえば」 「ん?どうした?」 「…お前の家族の話は、聞いたことがないな」 「…、………そう?」 家族。そう単語を出した瞬間、レッドの身体が少しだけこわばった気がしてグリーンはまずい話題だったか、と後悔するもののもう遅い。 「そうだな。…シゲルとかの話はよく聞いていたが」 「…そう……だったっけ?」 「意識していなかったのか」 「うん…別にしてなかった、かなあ…」 思い出せるような彼の会話の内容と言えば、サトシの話や研究所での暇の潰し方、食事があまり美味しくないといったことから、彼のマサラタウンでの友人でグリーンに外見がとても似ているという"シゲル"、そしてその祖父のオーキド博士の話が大半で、未だかつてレッド自身の家族という存在の話はなかったのである。 「……聞かれたくないなら聞かないが」 「…………――まあ、グリーンだから、いいかな」 「無理には聞かないぜ」 「ううん、いいよ。ていうか、もっとそうやって聞いてよ」 「…いいのか?」 「うん。……楽しい話、あんまりないけどね」 やはりレッドにとって家族の話題はご法度だったようだ。いつものように柔らかく笑っているが、少しだけ無理していることがちらちらとその雰囲気から感じられる。 だが、レッドからすればグリーンがそうやって自分に興味を持ってくれることも、お互いの話が出来るのも嬉しかったのだ。出来る限りの話はしたいし、普段会話をしようとはしない彼が訊いてくれるのならそれに答えたいとも思う。 ――それでも、懐かしい記憶は明るいものではない。 気まずそうに顔を歪めたグリーンにレッドは思わず苦笑いを浮かべてしまう。 「…そんな顔するなよ。あそこにいた奴はみんなそうだよ、きっと」 「……そうだな」 「そうだなあ……家族かあ…」 後ろに手を付き、上方を見つめるその姿は何かを思い出しているような、懐かしんでいるようだった。でもそれにしてはレッドの目は冷えており、それはまるで、悪夢を思い出しているような印象すら受けてしまう。 「もういないから、話す機会もなかったけどさ…」 「いない……?」 「……父さんも母さんも、死んじゃったから」 「そう、か…」 「うん。………俺が、殺したから」 「……何…?」 普段温厚なレッドが両親を殺した、という。そんな冗談を言う奴だとは思えないし、こんなことを言うのだからそれは確かに真実だろう。だが、幼い彼が――両親を殺した? 「……どういう、ことだ?」 「……俺の力の話って、したっけ?」 「波導――だったか」 波導。それはあまりに特殊な力だった。普通の人間は石の力によって導術を扱うが、波導を持つ人間は石の力を必要としない。導術に必要な力の流れを自分の中に持っているからだ。レッドが研究所に拉致されたのもその能力が故だという。 「そう。…それの所為で、殺しちゃった」 「……っ…」 「いきなり、なんか…身体の中から熱いものが溢れたみたいになってさ。何がどうなってるのかわからなくて」 「力を、制御できなかったのか」 「そんなとこだと思う。…それまでそんな力なかったから、何が起きたのかわからなくて頭の中真っ白だったし」 「……そう、か…」 「目の前、真っ赤になっててさ。びっくりしたな」 はじめに自分が訊いてはいけないことを訊いてしまったのだとグリーンが思った時、感情的なレッドのことだ、泣くかもしれないとも思ったし、少なくとも辛そうな顔をさせてしまうだろうと思った。だが、実際はその真逆。レッドはただ淡々と、まるで書いてある文字を辿って読むかのように無表情で話を続けたのだ。 「レッド…」 「なんか、ぐっちゃぐちゃにしちゃったし」 「……覚えているのか…?」 「うん…なんとなく?だって、ほら、見た目強烈だったし」 「…何歳の時だ?」 「いくつかなあ……八歳…いや、もっと小さかったかもしれない」 「じゃあ、はっきりと覚えてるわけではないんだな?」 「…、…びみょう、かな」 「……そうか」 不器用なグリーンの手がレッドの頭を慣れない手つきで撫でる。レッドはそれを拒むことなく、むしろ気持ちよさそうに目を細めて笑ってみせる。他人の感情というものを的確に理解することは不可能だと言って違いない。だが、より深く理解しようとすればきっとできるはず。レッドは必死になってそうしてみせようとする人間だ。グリーンはそこに焦がれたし、そこに救われた。 なら、少しでも自分がレッドの救いになれば。 「……あの時は全部ためこんで頭の中、わけわかんなくなってて…つらかったから、覚えてることの方が多いのかも」 「…………」 「グリーン?」 傷つけないように、優し過ぎるほど優しく、グリーンの腕がレッドを抱き締める。あまりに人を傷つけることに慣れてしまった自分の腕は大切にしたいと思う存在すら壊してしまいそうでグリーンは時々、怖くて仕方がなくなる。でも、それでもその場から次の瞬間にでも消えてしまうのではないかと思わせるほどレッドの存在が希薄な気がして、抱き締めずにはいられなかった。 「抱え込むな。……そう、俺に言ったのはお前だろう?」 「……うん…」 「その時の記憶を思い出したならずっとこうしててやる。力が怖くなったなら傍にいて、平気だと証明してやる。…だから、一人で耐えるな」 「…うん……ありがと。今は、もう大丈夫…下向いてばかりじゃだめだって分かってるし、シゲルにもそう教えた」 「…ずっと前だけを見ていなくてもいいんだぜ」 「………うん…」 「…時々は、立ち止まって下向いて、泣いてもいい。きっと今までそうさせてくれる人間がいなかったんだろうが…今は、俺がいるから」 一人だけの部屋で暗い夜を超える時に、レッドはこの華奢な身体でどれだけの感情を抑えつけてここまで来たのだろう。沢山の悲鳴を聞きながらそれでも力をふるえと言われたその夜、感情を切り捨てられないレッドはどれほど苦しんだのだろう。 「…あ……れ……」 「…レッド…?」 「え、あ、ごめん…なんか勝手に出てきちゃった……」 「……張りつめてたものが切れたんだろう」 ほろほろとその大きな目から涙を落とすレッドをなだめるように背中を撫でながらグリーンは、二人はお互いのあたたかさを身体に染み込ませあった。困ったように笑うレッドをさらに腕の力を強めて抱き締める。少しでも安心できるように、笑えるように。 互いの幸せを、笑顔を望むのは言わずとも共通の願いだった。 「そうかなあ……あー、止まんないや」 「…そのままにしておけ」 「………ん…」 目元を擦るのをやめ、レッドは大人しくグリーンへと身体を預ける。その空気は夜になってしまえばやはり冷たい。触れてるか所があたたかかった。研究所にいたときの無機質な虚しさはもうここにはない。少しでも前へ、前へ行けるように。深く息を吸い込み、安堵の息を吐く。 「…お前のそばって安心するなあ」 「……俺も、お前のそばは安心する」 「じゃ、お互い様だな…」 「ああ」 一日のうちにたくさんのことがあった。それでもこうして安心していられることが少しだけ嬉しい。まだまだ気になることや心配事はある。それでも、こうして自分とは別の存在に救われるのは悪い気持ちはしない。レッドは少し目を閉じ、また開く。 「……サトシは、うまく逃げられたかな」 「ああ、きっと。ピカチュウもついてるしな」 「ん…そうだよな…」 「俺たちも、早くここを抜けないと」 「…ああ、いつまでも休んでられないし」 「馬鹿、身体を休めてからだ」 「もう休んだ。大丈夫…」 目元をぬぐってそう笑おうとするレッドの頭を軽く叩き、黙らせるとグリーンはため息を吐く。焦り始めるとレッドは自分のことを顧みなくなる。レッド自身が自分のことを気にしない以上、グリーンは自分がその分を気にしてやらなければならないと思っていた。 それに、レッドには手足の痺れという障害もある。普段から支障をきたすものではないが、疲れがたまるとそれが出やすくなってしまうのだ。そうなればやはり、いざ追っ手から逃げなければならなくなってしまった時に逃げきることが難しくなってしまうことも考えられる。 「い、痛いなあ…」 「手足の痺れもあるのに無理をするな」 「このくらい平気なのに…」 「駄目だ」 「……」 「ほら、寝ろ」 「寝なくても大丈夫だって」 じっとグリーンがレッドの目を見つめると、唇を尖らせてレッドは目を背ける。本当はわかっているのだ。休まなければならないことも、そうしなければ足手まといになり得ることも。それでも焦っているし、自分だってグリーンの体調を気遣いたい。何も言えずに俯いていると、グリーンは頭をぽん、と軽く撫でた。 「…さっさと寝ろ」 「……ちえ…じゃあ、お言葉に甘えるよ…」 「そうしろ。…起きたら、一気にここを抜けるからな」 「ん…わかった」 「使え」 「うん、ありがと」 グリーンの上着を預かり、レッドはそれにくるまって微笑んだ。そうすればまた、少しだけグリーンが笑う。ゆっくりと、レッドの頭を撫でながら。 「今日は、悪夢は見ない。ゆっくり寝ろ」 「…うん、ほんと、ありがとな」 「………おやすみ、レッド」 疲れていたのだろう、目を閉じて少しすればすうすう、と寝息が聞こえ始めた。レッドが眠ったのを確認してから頭を撫でていた手を離し、グリーンは自嘲するように笑う。そばにいると安心すると言った言葉に嘘はない。だが、その言葉の裏には自分がレッドを"友達"以上の存在として想っているという事実が暗に隠されていた。 もしも、と考えることがある。もしも、この気持ちを素直にレッドに告げたら、彼はどう返事をするのだろう。戸惑うだろうか、泣くだろうか。それともいつもの笑みで自分もだと言ってくれるのだろうか。――それでも。 グリーンはゆっくりとレッドに口づけた。それは触れるだけの、ほんの少しの臆病さを隠した口付け。 「………伝えたら、きっとお前を不幸にするんだろう、な」 その呟きは誰にも届かない。先程と変わらずに寝息を立てているレッドの耳にすら。グリーンは少しだけ目を伏せ、切なげに笑ってレッドからゆっくりと手を離したのだった。 |
2009.4.14 |